【ちょっと昔のスピ本レビュー】『思いは生きているー想念形態ー』(アニー・ベサント、C・W・リードビーター共著 田中恵美子訳)
※第一刷発行日は記載されておりませんでした。
ひななぎであります!今回は『思いは生きているー想念形態ー』という本のご紹介です!
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『思いは生きているー想念形態ー』(アニー・ベサント、C・W・リードビーター共著 田中恵美子訳)
この本は日本語訳版が昭和61年に第二刷が発行されたみたいで、西暦でいうと1986年に発行された本ですが、翻訳される前の原本はなんと1901年に発行されていたそうです。
100ページくらいの薄めの本で、その内30ページはカラーでイメージ画像の為に使われているので、かなりさっくり読める感じですね。
Amazonでは2023年7月現在では中古の取り扱いが少ししかなくて、プレミア価格になってしまっています。
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この本をざっくり説明しますと、人の思考や感情を色として見ることができた著者2人が共同で研究し書いた本で、人が思いを抱いている時、見えない世界ではその思いがどのような形をとって表れているかを説明、まとめた本でした。
素晴らしかった点がたくさんありました。
思考がどのような力を持ち、どれほど影響力を持っているかを説明すると共に、ケース別で人の思考感情がどのような形や色を出しているかを説明してくれている点。
また、パソコンが無かった1900年代にもかかわらず、思考がどのように見えているのかを絵にして、色や形を可能な限りしっかり伝えようとしてくれているのは、畏敬の念と言いますか、著者の伝えることへの熱意を感じました。
本の中では様々な状況の思考の形が紹介されていてとても興味深いです。
愛情だけでもいろいろあって、はっきりした愛情、漠然とした愛情、利己的な愛情、動物的な愛情、それぞれが違う形や色をして表れているそう。
それ以外にも、平和の念、祝福、宗教的感情、知的探求、野心、怒り、貧欲、自己放棄がどんな色や形をして表れているのか、これらをカラーのイメージ画像と共に伝えてくれます。
こういったスピリチュアルな世界に興味がある私にとってはこの本の全てが興味深かったのですが、その中でも特に面白く感じた部分を引用を交えてちょっとご紹介しますね。
“愛の思いと守ろうとする望みが愛する相手に強く向けられると、相手に向かって進んでいく一つの形態を創造し、その人のオーラの中に盾となり守りとなって留まる”
これは強い思いは対象に向かって飛んでいくだけでなく、考えた本人の元を離れても目的を持って機能していることがわかる一文でした。
本によると善意だけでなく悪意もこのように機能するそうで、これを考えると霊媒師の方がよく言う生霊というものがどういった存在なのかもわかる気がしますね。
“人は皆、自分の習慣的な思いによって創造した想念形体の塊りに取り囲まれて空間を旅しているのである。このような媒体を通して人間は世界を眺める”
これは私たちの考え方だけでなく住む場所や仕事などの境遇は、文字通り自分が考えた通りになっている。と言っているように私は感じました。
オーラが見える著者からすると人々がどのような境遇なのか見るだけでわかってしまうのかもしれないですね。
それとこの一文は、オーラが見えなくとも習慣的な思いを変えれば、境遇を変えられることを暗に伝えてくれているようにも思えました。
その他にも、思考が他の人と共振する条件やしない条件、思考はどのように現実化の鋳型となるのか、送り出した思考が返ってくること、などなど面白い内容が盛り沢山でした。
巷でよく言われている「思考は現実化する」とか「愛や感謝の念を抱くようにしなさい」などは、言葉でそう言われても何故そうなのか分かりにくい部分があると思うのですが、この本はその辺りを補足してくれている気がします。
この本を読むことでより思考が力を持っていることへの認識が強くなって、自分が抱く思考を意識的に気づいてコントロールしようとするようになるのではないかと思いました。
ちょっと気になる点は、2023年7月現在ではプレミア価格になっていて中古で4000円以上もするのに、本はカラーのイメージ画像30ページも含めて100ページしかないこと。4000円にしてはページが少なく感じてしまいますね。。200ページは欲しいなぁ、なんて思ったり。ちょっと贅沢でしょうか笑
もちろん貴重な知識の塊ですので4000円以上の価値があるとは思います。笑
あと、1980年代に訳された本ですので現代ではあまり使わないような難しい言葉の使い方が少しだけあったりします。でも読書を習慣にしている方であればなんら問題ない程度かと思います。
本の内容は素晴らしいです。霊的な見えない世界、スピリチュアル、オーラ視、思考が及ぼす自分と人への影響、などに興味がある方におすすめです。
私はスピリチュアルな世界では、本から得られる知識が読む人の理解度によって大きく左右されてしまうと思っているのですが、この本は少ないページ数ながら画像付きでできるだけ分かりやすく説明してくれている気がするので、ほとんどの方は一読して損はない本かと思いました。
思考感情(オーラ)の色や形が見えない人にも、精神的な世界を垣間見せてくれる素敵な一冊でした。
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本のレビューは第二回目なのですがどうでしたでしょうか?
素晴らしい本たちが時代と共に埋まっていくのはちょっと寂しいので、今後もこういった古いスピ本レビューを書いてときどき古いスピ本を掘り返していこうかなって思っております。ここまで読んでくださりありがとうございました〜!
【ちょっと昔のスピ本レビュー】『我、汝に為すべきことを教えん』(アーサー・M・アーベル著 吉田幸弘訳)
お久しぶりでございます!ひななぎであります!今回は『我、汝に為すべきことを教えん』という本のご紹介です
※スピリチュアル要素は少ない本なのですが、霊的な力からインスピレーションを得るという話をする本なので、私はスピ本と解釈しています。ちょっと不思議って感じです。
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『我、汝に為すべきことを教えん』(アーサー・M・アーベル著 吉田幸弘訳)
この本の日本訳版は2003年9月20日に発売されたみたいです。もう20年前ですね。
Amazonでは23年6月現在では中古の取り扱いしかありません。ちょっとレア?
この本はざっくり説明しますと、著者が複数の著名な作曲家に出会い「作曲のインスピレーションがどこから来るのか?」というテーマを語り合った記録のような内容でした。音楽家が語り合った記録ですので半分は音楽業界の話が出てきます。残り半分がインスピレーションに関係する話、という感じです。
この本で著者はこれらの作曲家である偉人たちと語り合います。
ヨハネス・ブラームス
リヒャルト・シュトラウス
ジャコモ・プッチーニ
エンゲルベルト・フンパーティング
マックス・ブルッフ
エドヴァルド・グリーグ
私は音楽業界はからっきしわからないので、作曲家たちがどういった業績を残したとか、旋律の良さとかの話は難しくてさっぱりわかりませんでしたが、私が注目したのはインスピレーションがどこからくるのかという部分です。
上記の音楽家たちはそれぞれ少し見方が違うのですが、何か霊的な力、神の力のようなものからインスピレーションを得ていると感じていて、そのインスピレーションが夢から来たり、半超越状態(私が思うに半分寝ていて意識を失いそうなギリギリの意識状態)のときに来たり、どのようなときにインスピレーションを得られるか。そして、どうすればよりインスピレーションを得やすくなるのか。について話していてとても面白い内容でした。
本の中の言葉の一部を引用しますと
「私は恍惚状態で睡眠と覚醒の間をさまよっている。意識はまだあるが、失おうとするちょうど境目におり、霊感に満ちた着想が湧くのはそんな時だ。」
「魂の中心である”発電機”から私の意識に向けて震えが伝わる道が開かれ、その後で霊感に満ちた着想が生まれる。」
「直面しなければならない重要な問題、すなわち霊感だ。これなしには永続的な価値を持つものは一切書き留めることはできない。」
などなど、インスピレーションをもたらす力の存在を匂わせる言葉が盛りだくさんでした。
私もデザイナーとして会社勤めだったとき、翌日が締め切りなのにデザインのアイデアすら決まっていないときが何度もあって、その度にどこからか来るインスピレーションに助けられていたので、何か潜在意識的な直感力が存在すると感じていました。そこにこの本を読んで偉人たちもこのどこからか来るアイデアの源泉を感じていたと知り、その存在をより深く確信できました。
あとあと、偉人たちが話す源泉からのインスピレーションに従うと、自分の頭だけで論理的に考えた作品より、良い作品ができるというような考えもあり、クリエイターとしてこの本を読むと学ぶことが多い内容でした。そういえば私がイラストレーターとして活動中に、自分の頭で組み立てたアイデアよりも、突然湧いて来たアイデアの方がSNSで何倍もバズったことがあったなぁ、、なんてことを思い出したり。
ただ、本のタイトルからかってに推測して「この本を読めば、今私が人生で”すぐに”何をすべきなのかわかりそう」と過剰に期待してしまったことに私自身ちょっと反省です。そうではなくて、この本は「インスピレーションの源泉があることと、どういう状態がインスピレーションを得やすいのかを教える本」というような感じで、その源泉に私たちがアプローチすることで、私たち各々が自分で何をすべきか知ることができるのだと思いました。
この本は下記のような方に特にオススメです。
・作曲家、イラストレーター、デザイナー、などなど何かをアイデアから作り始めるクリエイター関係の方。
「インスピレーションがどこから湧くのか」という、アイデアに特化したような言い方ですが、見方を変えれば人生のどのようなシーンにも使えそうです。このインスピレーションの源泉は「これから人生をどう進むか」という根本的な悩みにも答えてくれそうな気がします。人生に迷っている方にも良いかもしれませんね。
ちょっと宗教色があったりしますので、宗教に抵抗がある方は少し読みづらさはあるかなぁとは思いますが、そこは気にしなければ問題ないかと思います。
「何か大いなる力が、私たちにインスピレーションを与えてくれる」という深い一冊でした。
↓こちらご紹介した本のAmazonページ↓アフィリエイトではないのでご安心を。
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私としては初めての本のレビューなのですがどうでしょう。変なところいっぱいあるでしょうか?
最近スピリチュアルでありながら、再販されていないちょっと古い本にいくつか出会ったのですが、良き本がいっぱいありました。
内容が良くてもいろんな事情から再販されずにいて、埋もれてしまっている本がたくさんあるのかもなぁ、、なんて思ってちょっと寂しく思ったり、、そういう本が少しでも広まれば嬉しいです
【スピ日記】私たちの本質は誰でもないんじゃないかと思った夢の話
おはようございますひななぎでございます。スピ日記です。今回もただの独り言。というか、肥大妄想かも
この記事は23年3月03日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収して、経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。(この記事を3月に書いて5月に投稿とかサボりすぎぃ!
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今から1年前くらいに見た夢のことを思い出した。印象的な夢でいまだに覚えている。
夢の中で私はただの観察者だった。
感覚は明晰夢に近くて自由に動きまわれる。
飛ぼうと思えば飛べるし、見ようと思えば見れる。
現実での私の記憶は全く持っていなくて、ただ気ままに動き回り景色を見ている。
景色を見て回っていると、喧嘩している人たちがいた。
今にも殴りかかりそうな雰囲気。
喧嘩している人たちは4、5人居て、その中の1人に意識を集中した。
すると私が見ている視界が望遠鏡を覗くようにその人にズームし、その人の姿をしっかりと捉えた。
それだけでなく、さらに意識を集中すると、私の意識はその人の中に入ってしまった。
ただの無心の観察者だった私はいつの間にか、感情と思考を持ち、その人そのものになっていた。喧嘩中のその人は激情にかられていたのか私も激情にかられ、相手に向かって殴りかかる。
ここで夢は終わった。
ただの夢だと言って終わらせることもできるけど、これはとても印象的だった。
とても落ち着いていて無に近かった感情や思考が一気に激しくなる瞬間は他にもある。
夢から覚めるときもそういう感覚、似たような感覚がある。
夢の中の私は、現実世界での私の記憶と感情をほとんど持っていないことが多いのだけれど、夢から覚めるとき、意識がスーっと肉体に戻っていくに合わせて、スーっと現実世界での記憶と感情を取り戻す。
夢の中にいた間は誰でもなかった私が
肉体の感覚、今日やらなければならないこと、私は誰で、どこにいるのか。
人間個人としての情報を思い出していく。。。
それとよくスピリチュアルリーダーや臨死体験者が経験したと言うワンネス意識では、
”肉体から離れるにつれて次第に個人としての考えが薄くなっていき、すべての人類が家族のように感じ愛おしく見える”などと聞く。
これらのことで少し思ったことがある。
夢の中での穏やかな感情を持ち、ただただ観察者をしている状態が、私たちの本質なのではないだろうか?
本質的には誰でもないけれど誰にでもなれる意識。
肉体に入るとその肉体の役割を演じ始める。
例えるなら、ロボットに入ったエネルギーみたいな感じ。
ロボットを動かすエネルギーが私たち。
エネルギーはそのままでは誰でもないけれど、ロボットに入るとロボットとしての動きをすることができるように。ロボットに入ると自分が何者かがわかる。
そしてロボットからエネルギーが抜けると、エネルギーはまた誰でもなくなる。
私たちもこの例えみたいな存在かもしれない。
肉体に入るまでは誰でもない。でも肉体に入ると、その人の記憶と感情を思い出すように読み取って、自分でも疑えないほどにその人になりきれてしまう。
この誰でもないけど誰にでもなれる意識。これが私たちの本質ではないだろうか?
なんて思った。
もしそうならこの考え方を持つことで少し俯瞰した目線から見ることができる。
人生がいくらか楽に考えられるかもしれない。
だれにでもなれる意識が私たちの本質なら、善人も悪人もただただ役を演じているだけということになる。
気に食わない性格の人が人生に現れたとしても、その人はその役を演じているだけ。
そしてその人を見て不快に思っている自分も、そういう役を演じているだけ。
この考え方は空しいだろうか?ーーーー
【スピ日記】何故良い話より悪い話の方が広がる速度が早いのか
スピ日記でございます。今回もただの独り言。結局憶測で終わるので「こういう考えもあるのかなぁ」くらいの緩い気持ちで読んでくださると幸いです。
この記事は23年3月08日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収して、経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。
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スピリチュアルなエネルギーの考え方を知り初めてからずっと疑問に思っていたことがある。
「愛や感謝や喜びといったポジティブな感情、エネルギーは、不安や恐怖などのネガティブエネルギーよりも何倍も強い」
と、あらゆるマスターやスピリチュアルリーダーたちが教えてくれているけれど
ではなぜ、不安や恐怖などのネガティブな側面を持っている話題はあっという間に広がってしまうのだろう?と時々考えることがあった。
例えば
「Aさんがすごく気が利いてよくしてくれるんです」
というようなポジティブな話題はじわ~っと広がるけれど
「Bさんは対応が荒くてやることをやってくれない」
というようなネガティブな話題はいっきに広がりがちに見える。
この事について、以前の私は
おそらくポジティブエネルギーは広がるのは遅いけれど長く留まれるような確かな力を持っていて、ネガティブエネルギーは素早く広がるけれど少しの間しか残存していれらない。ということなのかなぁと考えていた。
しかし最近、デヴィッド・R・ホーキンズ氏の本『パワーかフォースか』を読んで考え方が変わった。
本によると、人類の大半はまだ恐れや不安の意識、つまりネガティブ寄りの意識で生きているとのことだった。
今まではネガティブエネルギーはボジティブエネルギーより広まりやすいと思っていたけれど、ちょっと違ったみたい。この考え方には人類の意識レベルの視点が欠けていた。
正しくは、ネガティブな情報や話が広まるのが早いのは、ネガティブエネルギーに共鳴してしまう人が多いから広まりやすい。ということだろう。
逆にポジティブな話は、ネガティブに比べて共鳴する人が少ないので広がるのも遅い。
もし世界中の人々がポジティブな意識で日々を生きていたら、ネガティブな情報はほとんど広まらないのかも。なんて思ったり。
寂しいけれど、ネガティブなニュース番組が次々と放送されて視聴率を獲得できている現状は、まだまだネガティブエネルギーに共鳴する人がたくさん居るということで、逆にポジティブエネルギーには共鳴する人が少ないのかもしれない。
ちょっと話が脱線してしまった。
ポジティブ・ネガティブどちらにせよエネルギーの広がる早さはエネルギーの強さだけでなく、共鳴する人の数に比例している。
ウクライナやトルコはすごく荒れているけれど、世界全体的に見れば少しずつ良い方向へ行っているというような話も目にするし、これから少しでも愛や感謝や喜びといったポジティブなエネルギーに共鳴する意識の人々が増えてくることを祈ろう。
良き世界になりますように。
【スピ日記】思考の現実化が起こることを回避できなかったのは何故だろう
スピ日記でございます。今回もただの独り言。結論はないので「こういう考えもあるのかなぁ」くらいの緩い気持ちで読んでくださると幸いです。
この記事は23年3月05日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収して、経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。
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思考の現実化を些細なものでも記録するようにすると、気づくことが多いのだけれど、今回は思考の現実化が起こることを回避できなかったという話。
2月の中旬
とくに目的は無かったけれどドラックストアへ行き、店内をうろうろ。冷凍食品コーナーを見て回ると、カスタード味の今川焼きが売られていた。
それを見て、2年前くらいに父が今川焼きにハマり何度も何度も買ってくるも「カスタード味は好きではない」と嫌っていたのを思い出した。(私は逆にカスタード味が好き)
その3日後、父がカスタード味の今川焼きを買ってきた。
「カスタード味は好きではなかったのでは?」と聞いてみたけれど、父はそもそも味を覚えておらず買ってきたようだ。
もちろん父が買ってこないように、今川焼きの話は父にしていない。
この些細な現実化で何が言いたいのかというと
最初の冷凍食品コーナーに置いてあった今川焼きを、見てしまって、考えるまでの流れが回避できなかったこと。
思考の現実化は、思考した後に現実化して目の前に現れるというように簡単に説明されているけれど
まず最初に”対象を意識する”ことに私の判断が入れなかった。
上記の話では見るつもりはなかったけれど今川焼きを見てしまい、それを見た私の思考は私の判断を挟まずに今川焼きについて考えを巡らせてしまった。
もう一つの事例も考えてみる。
2月下旬
私はスピリチュアル的なことや哲学的なことに偏っていながらも、アニメ好きなのでよくアニメを見る。
この日見たアニメの中で、こちらの世界から異世界に移動できる能力をもった主人公が、異世界の王様に老眼鏡をプレゼントしていたのを見た。
そしてその翌日、父が老眼鏡を新調した。父は使えれば何でも良いという考えの人なので、もう何年も古い老眼鏡で生活していたのに何故かこのタイミングで新調した。
上記も些細なことの現実化。
いや、これは現実化というよりただそれを見ているだけのようにも感じる。
この事象でも、私が最初にアニメの中で老眼鏡が出てきたのを見てしまうのは回避できなかった。これについては全く回避する余地は無かったと言いたい。
アニメの中で老眼鏡が出るなんて全く予測できなかったし、まさかそれが現実化するなんて思ってもいなかった。
私の記録を見てみると、この2つの事例のようなことは何度も起きている。最初に何かに意識を集中してしまうことを回避できなかった、思考の現実化の流れ。
ここで、思考の現実化を原因と結果として考えてみた。
思考が原因で、現実化が結果というシンプルなことではなく、思考すらも何かに影響された結果であることに気づく。
思考したことが現実化するとき、私たちは無意識に操られていて現実化することを回避できない場合が多いのだけれど
思考も何かの現実化だとするなら、何かが目の前に現れて意識を集中してしまったり、どこからか思考が湧いて出てくることは、そもそも回避できないことなのかもしれない。
思考が出てくること、何かに意識を集中してしまうことが回避できないことなら、私たちの人生は自然と起こっているだけで、それを私たちは自分が判断したように感じながら、ただ観察しているだけかもしれない。
私が昨年読んだ『"それは在る"』という本で著者が「出来事はただ起こっている」と言っていて、それがよくわかっていなかった。
「人生で起きた出来事は、私が選択肢を変えていれば起こらなかったはず。」なんて考えていたけれど、思考すらも自然と起こっているならそれはもう私の意志は介在していないのでは?
「人生はただ起こっていて、思考の現実化という事象もただ起こっている」のかも。
こんなことを考えていたら少しずつ変な気持ちになっちゃいますね。自我を見失いそうになります。
これとは別に私たちには"自由意思"が与えられているという考え方もスピの世界にはありますね。それについてはまた別の機会に考えてみようと思います。さすがに人生がただ起こっていて意志が入っていないというのは私もちょっと寂しく思いますので。笑
【スピ日記】しれっと世界を見渡したりちょっとした未来予知もしている潜在意識
スピ日記でございます。今回もただの独り言。結論は無いので「こういうことがあるのかぁ」くらい緩い気持ちで読んでくださいませ。
この記事は23年3月04日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収して、経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。
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思考が現実になって目の前に現れたら些細なことでも記録する癖をつけているのだけれど記録しているとたびたび驚異的なことに気づく。
もしかしたら潜在意識は、しれっと世界で何が起こっているかを見渡していて、なおかつ未来予知もしているのではないか?、、、
私に起こった直近の現実化を考察してみる。
3月3日
父が半年ぶりくらいに「もずく」を買ってきた。それも大きなパックで。
父がもずくを買ってくるのすら珍しいけれど、もし買ってくるなら小さなカップで小分けされたものを買ってくるので、大きなパックで買ってきていたもずくが珍しく感じ、私の意識がもずくに集中した。
その日の夜、youtube内の私が好きなチャンネルに前日から新着動画が上がっていてオススメされたものを再生すると、動画内にもずくが出てきた。(もちろんサムネイルにもずくは写っていないし海産物系の動画でもない)
ちなみに、youtubeで見た動画は、前日に新着として上がっているのを私は見ていたけれど、その時には再生せずに、父がもずくを買ってくる前日になってからやっと動画を再生した。
この些細な思考の現実化をよく考えてみると驚異的なことが起きているのに気づく。
上記のもずくの現実化が行われたようにするには、これが必要になる。
①父がもずくを買ってくる前日にyoutubeで見た新着動画を見ずに無視した。
これは考えてみると、次の日父がもずくを買ってくることを潜在意識は既に知っていた。(潜在意識は未来を知っているということになる。)
それと、動画内にもずくが出てくることを、動画を見ていないのに潜在意識は既に知っていた。(潜在意識は世界で起きていることを肉眼で見る前から既に知っているということになる。)
②父がもずくを買ってきて、それを私が目撃した後にyoutubeにて動画を再生し、現実化したもずくを目撃した。
動画を再生するときはもちろん私は何も知らないまま無意識に動画を選んで再生している。潜在意識は動画内でもずくが現れることを既に知っており、無意識領域から私の行動を操り、動画を再生させた。(潜在意識は私の無意識的な行動を操作できるということになる。)
もずくもずくと連続で書いていて、私は何を考察しているのだとちょっと笑っちゃう。笑
もう一つの事例も見てみよう。
3月4日
私が今読んでいる本『エネルギー・コード』にて、著者の経験談の中で、四葉のクローバーが何度も出てきた。
著者が四葉のクローバーを何本も見つけて摘んだという話を読んですぐ後に、私は仕事帰りの母を迎えに行った。
しかし今日に限って母の仕事上がりがかなり遅くなり、ただ何もせず待つことをやめてしまい、近くにあるドラックストアへ行き、母が仕事場から出てくるのを待つことにした。
まもなく母は仕事から上がり、私が待つドラックストアへ。私が枕のコーナーを見ていると、母が四葉のクローバー柄の枕カバーを持ってきて私に見せた。
これも真剣に考察するのが笑っちゃうくらいとっても些細な現実化。
上記の四葉のクローバーの現実化が起きるには、これが必要になる。
①母の仕事がこのタイミングで遅く終わらなければならない。遅くなり待ち疲れた私がドラックストアへ行かねばならない。
これは考えてみると、潜在意識はこの日母の仕事が遅くなるのを既に知っていた。
そして、潜在意識は待ち疲れた私の注意をドラックストアへ向けさせ、更に枕のコーナーへ足を運ばせた。
②母は枕のコーナーにて四葉のクローバ柄の枕カバーを私の元に持って来なければならない。
潜在意識は母の意識を枕カバーへ向けさせ、持って来させた。
この場合、潜在意識は私という個人の域を出て母の行動を操作したことになる。
まとめると
潜在意識は世界で何が起こっているか細かな部分まで知っている。
潜在意識は未来を予測している。
潜在意識は無意識的な人の行動を操ることができる。
日常にある些細な思考の現実化は頻繁に起こっているけれど
こんな事がそれはもう頻繁に起きている。
思考の現実化関係の知識を持っていない人はこれに全く気づかずに人生を過ごしているけれど(私も知るまでずっと気づかなかった)もしかしたら、この世界はこういったことの連鎖で成り立っているのではないだろうか。。。?
こんなことを言うとちょっと気持ち悪くなってしまうかもだけれど
もしも、私が明日歯磨き粉を新しく買うことが誰かに意図されていて
(意図した人は歯磨き粉の在庫を減らしたかったみたいな感じ)
そのタイミングに合わせて私が歯磨き粉を切らすように、60日間無意識に歯磨き粉を使う量を調整していた。。
なんてことがあるとしたら、、?
よく考えたらこの例えは意味不明だけれどね笑
私の無意識的な行動、私に入ってくる思考。これらは一体何者なんだろうか。
すももです。こんな肥大妄想みたいな考えを最後まで読んでくださった優しいあなた様に感謝を。ありがとうございます。このブログではこういう考えを書き連ねていますので、気が向いたときにでもまたいらしてください~
【スピ日記】知識が順番良くやってくるのってなぜだろう
スピ日記でございます。今回もただの独り言。思ったことや推論を書き連ねる回です。
私の考えは一部直感から来ていることがあります。直感がくる時は心が静かな時が多いのですが、やっぱりちょっと肥大妄想っぽくなってしまうのですよね、、それでもよければ見てくれると嬉しいです。
この記事は23年2月23日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収して、経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。
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スピリチュアルな知識を学びつづけていると、"知識が順番良く来ている"ということに気づく。
本からでも動画からでも人との話からでも、知識は学ぶ順番を守って、私の中へ来ている。
私はスピリチュアル?な知識、この世界の仕組みのようなジャンルに意識を向けはじめてから5年目なのだけれど
いきなり応用編の本が手元に来たりせずに、まず基礎知識を学んでから別の本で応用編を学ぶことになった。
ちょっと言葉が難しいので簡単に例えると、マンガ本1巻を読まずにいきなり3巻を読むことになったことは無かった。
必ず1巻読んだら2巻、2巻読んだら3巻というように順番良く知識を学ぶ機会が現れた。
私はもう数十冊はスピ系の本を読んでいるのだけれど、5年前から順番良く、じわぁ~っと本から得られる知識レベルが上がっているのに気づいている。
本からだけでなく動画から入ってくる知識も、人との対話で聞く話も、その時々の私のレベルに合わせている内容になっていることが多い。
この「知識が学ぶ順番良く入ってきている」ということを考えた上で、気になることがもう一つあった。
新しい本に出会い「これは素晴らしい叡智だ。更に知識を深めることができた」なんて思ったりするけれど、本の初版日がかなり前だったり、ものによっては1世紀も前の本だったりするのだ。
何が言いたいのかというと、深い知識の本が数年前にはもう存在していたのに、今までその本に出会うことが無く、学ぶべきタイミングが来てから私の目の前に現れたということ。
私はスピリチュアルやこの世界の仕組みに興味が出てから、おすすめ本のまとめブログやAmazon、本屋などで頻繁により良き本が無いか探してきたけれど、数年前にもう存在していた深い知識の本が、私の知識レベルを無視していきなりオススメされたり、目の前に現れたことがなかった。
このことを長く疑問に思っていたら、突然直感した。
なぜ知識が順番良く現れるのか。それは
「自分の精神的レベルに近いレベルの知識にしかアクセスできないから」だと突然考えが降りてきた。
例えると、世界を1~1000の精神レベルで分けたとして、今の自分の精神レベルが100くらいだとしたら、その通りに自分の見る世界、周りの環境はレベル100くらいの世界になる。
そしてアクセスできる情報はレベル100の付近なので、学べる知識は頑張ってもレベル150くらい。それ以上のレベルの知識にはアクセスできない。
自分の精神レベルが100付近の状態で本屋に行ったとして、もし目の前にレベル500の本があったとしても、レベル差がありすぎるので認識できない。認識できるのは自分に近いレベルの本だけ。
という感じ。
(最近『パワーかフォースか』という本を読んだので、本から影響されて例えがレベル1000になってなっているけど気にしないでね)
精神レベル100の自分が、アクセスできる知識は100の付近の150まで。
なので、知識を学ぶとき得られる情報はレベル150の情報。
レベル150の知識を学び、自分の精神レベルが150になれば、次はレベル200の知識にアクセスできる。
そして250、300、350、、、と少しづつ知識が開示されるようになっている。
私はこの例えで本が情報源としているけれど、情報源は本でなくても同じようになる。
youtubeでスピリチュアルな動画を探して見るとしたら、いきなりレベルが高い動画には到達できない。
いや、youtubeからオススメはされるかもしれないけれど、適正レベルでなければ、レベルが高い動画は無意識に無視してしまうだろう。
人とのコミュニケーションでも似たようになる。
適正レベルでなければ、レベルが高い人が目の前に現れることはほぼ無い。
もし目の前に現れていたとしても、認識できないか、会話することがない。
これが、知識が順番良く現れる理由なのだろう。
得た直感が私の肥大妄想ではなくて”高次の存在”や”内なる私”からの情報であれば合っているはず。これも結局は判断しようが無いけれど。。
今現在の私も、まだスピリチュアルな知識やこの世界の仕組みについての本を読んでいるけど、より深く知ることが続いている。
今私に与えられている情報は、今の私に学ぶ準備ができているから来ているのかもしれない。
最後にちょっと考えてしまったのだけれど、もしかしたら、知識だけでなく、人生経験も学ぶ順番で起きているのかもしれないなぁ。。