【スピ日記】私たちの本質は誰でもないんじゃないかと思った夢の話

 

おはようございますひななぎでございます。スピ日記です。今回もただの独り言。というか、肥大妄想かも

 

この記事は23年3月03日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収して、経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。(この記事を3月に書いて5月に投稿とかサボりすぎぃ!

 

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今から1年前くらいに見た夢のことを思い出した。印象的な夢でいまだに覚えている。

 

夢の中で私はただの観察者だった。

 

感覚は明晰夢に近くて自由に動きまわれる。

飛ぼうと思えば飛べるし、見ようと思えば見れる。

現実での私の記憶は全く持っていなくて、ただ気ままに動き回り景色を見ている。


景色を見て回っていると、喧嘩している人たちがいた。

今にも殴りかかりそうな雰囲気。

 

喧嘩している人たちは4、5人居て、その中の1人に意識を集中した。

 

すると私が見ている視界が望遠鏡を覗くようにその人にズームし、その人の姿をしっかりと捉えた。


それだけでなく、さらに意識を集中すると、私の意識はその人の中に入ってしまった。

 

ただの無心の観察者だった私はいつの間にか、感情と思考を持ち、その人そのものになっていた。喧嘩中のその人は激情にかられていたのか私も激情にかられ、相手に向かって殴りかかる。

 

ここで夢は終わった。

 

ただの夢だと言って終わらせることもできるけど、これはとても印象的だった。

 

 


とても落ち着いていて無に近かった感情や思考が一気に激しくなる瞬間は他にもある。

 

夢から覚めるときもそういう感覚、似たような感覚がある。

夢の中の私は、現実世界での私の記憶と感情をほとんど持っていないことが多いのだけれど、夢から覚めるとき、意識がスーっと肉体に戻っていくに合わせて、スーっと現実世界での記憶と感情を取り戻す。

 

夢の中にいた間は誰でもなかった私が

肉体の感覚、今日やらなければならないこと、私は誰で、どこにいるのか。

人間個人としての情報を思い出していく。。。

 

 

 

それとよくスピリチュアルリーダーや臨死体験者が経験したと言うワンネス意識では、
”肉体から離れるにつれて次第に個人としての考えが薄くなっていき、すべての人類が家族のように感じ愛おしく見える”などと聞く。

 

これらのことで少し思ったことがある。
夢の中での穏やかな感情を持ち、ただただ観察者をしている状態が、私たちの本質なのではないだろうか?

 

本質的には誰でもないけれど誰にでもなれる意識。


肉体に入るとその肉体の役割を演じ始める。

 

例えるなら、ロボットに入ったエネルギーみたいな感じ。

ロボットを動かすエネルギーが私たち。


エネルギーはそのままでは誰でもないけれど、ロボットに入るとロボットとしての動きをすることができるように。ロボットに入ると自分が何者かがわかる。

 

そしてロボットからエネルギーが抜けると、エネルギーはまた誰でもなくなる。

 

 

私たちもこの例えみたいな存在かもしれない。
肉体に入るまでは誰でもない。でも肉体に入ると、その人の記憶と感情を思い出すように読み取って、自分でも疑えないほどにその人になりきれてしまう。

 

この誰でもないけど誰にでもなれる意識。これが私たちの本質ではないだろうか?

なんて思った。

 

 

もしそうならこの考え方を持つことで少し俯瞰した目線から見ることができる。
人生がいくらか楽に考えられるかもしれない。

 

だれにでもなれる意識が私たちの本質なら、善人も悪人もただただ役を演じているだけということになる。

 

気に食わない性格の人が人生に現れたとしても、その人はその役を演じているだけ。
そしてその人を見て不快に思っている自分も、そういう役を演じているだけ。

 


この考え方は空しいだろうか?ーーーー