【スピ日記】思考の現実化が起こることを回避できなかったのは何故だろう

 

 

スピ日記でございます。今回もただの独り言。結論はないので「こういう考えもあるのかなぁ」くらいの緩い気持ちで読んでくださると幸いです。

 

この記事は23年3月05日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収して、経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。

 

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思考の現実化を些細なものでも記録するようにすると、気づくことが多いのだけれど、今回は思考の現実化が起こることを回避できなかったという話。

 

 

2月の中旬


とくに目的は無かったけれどドラックストアへ行き、店内をうろうろ。冷凍食品コーナーを見て回ると、カスタード味の今川焼きが売られていた。

 

それを見て、2年前くらいに父が今川焼きにハマり何度も何度も買ってくるも「カスタード味は好きではない」と嫌っていたのを思い出した。(私は逆にカスタード味が好き)

 

その3日後、父がカスタード味の今川焼きを買ってきた。


「カスタード味は好きではなかったのでは?」と聞いてみたけれど、父はそもそも味を覚えておらず買ってきたようだ。


もちろん父が買ってこないように、今川焼きの話は父にしていない。

 

 

この些細な現実化で何が言いたいのかというと

 

最初の冷凍食品コーナーに置いてあった今川焼きを、見てしまって、考えるまでの流れが回避できなかったこと。

 

思考の現実化は、思考した後に現実化して目の前に現れるというように簡単に説明されているけれど

 

まず最初に”対象を意識する”ことに私の判断が入れなかった。

上記の話では見るつもりはなかったけれど今川焼きを見てしまい、それを見た私の思考は私の判断を挟まずに今川焼きについて考えを巡らせてしまった。

 

 

もう一つの事例も考えてみる。

 

2月下旬


私はスピリチュアル的なことや哲学的なことに偏っていながらも、アニメ好きなのでよくアニメを見る。


この日見たアニメの中で、こちらの世界から異世界に移動できる能力をもった主人公が、異世界の王様に老眼鏡をプレゼントしていたのを見た。

 

そしてその翌日、父が老眼鏡を新調した。父は使えれば何でも良いという考えの人なので、もう何年も古い老眼鏡で生活していたのに何故かこのタイミングで新調した。

 

 

上記も些細なことの現実化。

いや、これは現実化というよりただそれを見ているだけのようにも感じる。


この事象でも、私が最初にアニメの中で老眼鏡が出てきたのを見てしまうのは回避できなかった。これについては全く回避する余地は無かったと言いたい。

 

アニメの中で老眼鏡が出るなんて全く予測できなかったし、まさかそれが現実化するなんて思ってもいなかった。

 

 

私の記録を見てみると、この2つの事例のようなことは何度も起きている。最初に何かに意識を集中してしまうことを回避できなかった、思考の現実化の流れ。

 

 

ここで、思考の現実化を原因と結果として考えてみた。


思考が原因で、現実化が結果というシンプルなことではなく、思考すらも何かに影響された結果であることに気づく。

 

思考したことが現実化するとき、私たちは無意識に操られていて現実化することを回避できない場合が多いのだけれど

 

思考も何かの現実化だとするなら、何かが目の前に現れて意識を集中してしまったり、どこからか思考が湧いて出てくることは、そもそも回避できないことなのかもしれない。

 

 


思考が出てくること、何かに意識を集中してしまうことが回避できないことなら、私たちの人生は自然と起こっているだけで、それを私たちは自分が判断したように感じながら、ただ観察しているだけかもしれない。

 

私が昨年読んだ『"それは在る"』という本で著者が「出来事はただ起こっている」と言っていて、それがよくわかっていなかった。

 

「人生で起きた出来事は、私が選択肢を変えていれば起こらなかったはず。」なんて考えていたけれど、思考すらも自然と起こっているならそれはもう私の意志は介在していないのでは?

 

「人生はただ起こっていて、思考の現実化という事象もただ起こっている」のかも。

 

 

こんなことを考えていたら少しずつ変な気持ちになっちゃいますね。自我を見失いそうになります。

 

これとは別に私たちには"自由意思"が与えられているという考え方もスピの世界にはありますね。それについてはまた別の機会に考えてみようと思います。さすがに人生がただ起こっていて意志が入っていないというのは私もちょっと寂しく思いますので。笑