【スピ日記】とても些細な出来事から世界の深い共同創造の流れを感じた話
スピ日記でございます。今回はとても些細な出来事からこの世界が共同で創造されていると感じたことの話です。世間話くらい些細なのに考えすぎて深くなってしまった話。
この記事は23年7月10日に私が考えていたことを綴ったものであり、今後もっと知識を吸収したり経験を積むことで考え方が変わる可能性があることをご留意くださいませ。
あとあと、今回の内容は”思考は現実になる”ということが当然のことだという考えのもとで書かれています。
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2023年7月09日
ある本の中で、意識して思考をある対象に集中させる訓練法が書かれていて、私は全くの思いつきできゅうりについて考えることに意識を集中した。
きゅうりの形、色、質感や凹凸、トゲ?、匂い。意識を集中して詳細にイメージする。
その間たった1分2分だけれども、今までの経験から「これは簡単なこと、すぐにできる」と思えることは30秒も意識を集中してしまうと、あっさり目の前に現実となって現れることは私の中でもう当然のことになっているので、この集中訓練によってきゅうりに意識が集中したので、近いうちにきゅうりが現れることが決まったように思った。
そして次の日、やっぱりきゅうりは私の周りに現れた。
父が「冷やしそうめんを食べたい」と母と話して、母も同意し、そうめんの付け合わせにきゅうりを買ってきた。私はきゅうりを買う直前まで、今日の食事がそうめんだという話は聞いていなかった。
ここで2つの見方をすることができるのに気づいた。
①私が前日にきゅうりに意識を集中させたので、それを現実とするために、両親の思考にきゅうりに関係する冷やしそうめんを思い立たせて、そうめんの付け合わせとして、きゅうりを購入させる。その結果私の目の前にきゅうりが現れた。
この考えだと、まるで私の思考が最初に起きて、両親の思考に影響を及ぼしたので、創造したのは私だけ。
以前の私であればこの考えを支持するかもしれない。
でも今回は上記ではなく下記であるように思えた。
②私がきゅうりに意識を集中させたので、その思考が周りにいる両親の思考にも影響を及ぼし、両親はきゅうりに関係する冷やしそうめんが食べたくなった。が、それだけではなく、私の両親は冷やしそうめんに意識を集中させていた。もしこの時点で私がそうめんを拒否していれば、両親が意識した冷やしそうめんはこの日現れず、その付け合わせとなるきゅうりも現れることができなかった。
つまりは、両親はきゅうりが現れることを無意識的に許可していて、私も冷やしそうめんが現れることを許可した。私と両親は無意識の領域でお互いに許可し合い、お互いに現実化するために協力していた。共同で創造したのだ。
これはすごく些細な出来事だった。
でも私はこの些細な思考の現実化から、世界の共同創造を垣間見た気がした。
今まで「世界は共同創造している」と先人たちは言っていて、少し考えるだけでもそれはそうだろうなと思うのだけれど、それは「道を整備する人がいて、道を使って運搬している人がいて、運搬された品物を使う人がいて、、、、」という繋がりのことだろう。
と思っていたけれど、こういう当たり前にわかることを、わざわざ先人たちが言葉にして伝えるだろうか?と思ってピンときていなかった。
そうではなく、思考とか、人同士で会話する内容とか、どの色の服を着るのか、どこへ何時に行くのか、というほぼ全てのことが、共同で創造されている。ということだったのだろう。
私は思考によってきゅうりを現実化したという些細すぎる出来事の過程を観察したことで、この世界は共同創造であるということに気づき、実感した。
ここまで記事を書いてきて、自分でもちょっと困惑してきた。
何を真剣に語っているのだ私は。笑
さっそく「世界は共同で創造されている」という考えの元で、道行く人々の日常生活を見ていると、この世界はあまりにも完璧に出来ているように見えた。
私たちは互いに思考の発信機であり受信機でありながらも、無意識の領域で他人の現実化の手伝いをすることを許可し、こちらも他人に手伝ってもらう許可を求めながら、共同で今の現実を作りあげているのが見えてくる。
例え話をすると、あるパン屋さんが青色の服が気になっているとする。すると青色の服を着た客がやってくる。
青色の服を着た客はパンが気になったからこのパン屋の元へやってきた。
このパン屋と客は、互いに気になったものを自分の周りに出現させる為に、無意識領域で合意して、共同でお互いの世界を作った。
この世界ではこういうことがものすごい頻度で発生している。
「今日は黄色ベースの服を着て出かけよう」と思ったとして、その考えが何故今出てきたのか?もしかしたら出かけた先では黄色の服を考えている人がいるかもしれない。
この世界は少数の強い意志と集中力をもった人が好き勝手作っているように見えるけれども、実はそうではなくて、この世界に参加した全員が共同で作っているということに今になって気づいた。
一見横暴なやり取りも実は、魂の深い所でお互いに許可しあって起こしているのだろう。世界は混沌ではなく、あまりにも完璧に采配され、綿密に織り込まれている場所だったみたいだ。